ねこまにあの素

ねこまにあのもと

母からの電話が嫌い

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電話が嫌いです。

好きな人からかかってくる電話以外は。

 

仕事をしてた頃、電話はたいてい仕事を増やすものだったし、

最近携帯にかかってくる電話は営業か、あまりよくない知らせばかり。

 

そもそも人が何をやっているかわからない時に

突然割り込んできて相手の時間を奪う電話ってなんなの、と

ホリエモンみたいなことを私も考えたりしています。

 

だから電話は嫌いです。

 

そして一番嫌いなのは、

母からの電話です。

 

 

「3000文字私を熱くさせるもの」で

もたろうくんややーさんが家族の話を書いていました。

(リンクは終わりに貼りますので是非見てみてください)

 

それが私の記憶にとても残っていて、

いつか私も自分と親のことを書きたくなる日が来るかも、と少し思っていました。

なかなかに時間が経ち、そんなこともすっかり忘れていたのですが、

色々な条件がそろって、今、書きたいと思ったのです。

 

友人にも誰にも話せないこと。

ここでなら話せるかな。

 

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私は父親の愛情を知らない。

 

 

 

父と母が離婚したのは、

私が小学生の頃だと思う。

 

思う、と書いたのは、実際の時期を知らないから。

幼稚園から小学校に入ってすぐくらいの間に、

父は家にいることが少なくなり、

週末しかいない人になり、

そして帰ってこなくなった。

 

別居していたんだと思う。

着々と離婚の準備をしていたのだろう。

 

帰ってこなくなった時、

私は母に毎週聞いていた。

「おとうはいつ帰ってくるの?」

母の返事はいつも決まって、

「この週末には帰ってくるよ」

だった。

 

でも、週末になっても父は帰って来ない。

いつしかその質問もしなくなり、

父の存在は家からなくなった。

 

母は、私に離婚することを言わなかった。

私には姉と兄がいるが、

彼らが知っていたのかはわからない。

ただ私が小学校に入った時、姉はもう中学生だったから

ある程度の事情は知っていたのでは、と思う。

 

何か考えがあって言わなかったのだと思うけれど、

父がなぜ帰ってこないのか、

その空気が当然になってからも私にはわからず、

父を求めてしまうことが度々あった。

 

小学校3年生か4年生の時。

父から手紙が届いていた。

学校から帰って、玄関に置いてある手紙を見つけた私は、

父の名前と連絡先が書いてあるその手紙を思わず自室に持ち帰った。

 

今ならわかるが、それは現金書留だった。

普通玄関に放置されるものではないが、

なぜかその時は玄関に。

家族が受け取っておいてあったのかもしれない。

 

当時の私はそんなこともわからず、

ただ父の筆跡で、名前と連絡先の電話番号が書いてあるものを

なぜだかとても大切なものに思え、手元に置いておきたくなったのだ。

そして、電話をかけてみよう、と思うに至る。

 

会わなくなってもう3年か4年が過ぎたころ。

電話をかける時はとても緊張した。

私のことを覚えているのだろうか、

嫌だなと思われないだろうか…

 

電話を取り、ボタンを押し、

最後のボタンが押せないまま電話を切り…

何度かそんな行動を繰り返した後、

意を決して最後の一桁を押した。

 

父は出なかった。

思えば、平日の午後。

仕事で不在なはず。

留守電につながる。

最初はすぐに受話器を置いた。

 

しばらくして、

留守電に吹き込もう、と。

もう一度ボタンを押し、電話をかけ、留守電にメッセージを残した。

今でも鮮明に覚えている。

「いつ帰ってくるの?どうして帰ってこないの?」

 

数日経っても

父からのリアクションはなかった。

私に電話がかかってくることも、手紙が来ることもない。

もう覚えてなかったのか、嫌いになったのか。

そんなことを思った記憶がある。

手元に置いておいた書留は、さりげなくテーブルの上に置き、

今日届いた風を装って母に渡した。

 

少し経って、

母と二人の時に、聞かれた。

「おとうに電話した?」

ドキッとした。

どうして気づかれたのだろう。

 

母は続ける。

「それを聞いて、悲しかった。」

そして泣いた。

 

父に電話をすることで

母は悲しむのか。

それは私にひどく衝撃を与えた。

申し訳ない気持ちでいっぱいになり、

もう連絡はしないと約束した。

 

最後に母は、

「もう一緒には暮らせないんだ」と一言だけ言った。

それは離婚報告のつもりだったのだろう。

以後、父の話をすることはなくなった。

私はその時を境に、父を求める感情に蓋をした。

 

 

 

 

私は母の愛がわからない。

 

 

父の一件で

母の涙を見た私は、

もう悲しませたくないと思うようになった。

 

このころ、姉は奔放すぎる高校生活を送り

兄は反抗期の入口。

彼らの世話に手を焼いていたことも知っていたので

せめて私だけはいい子にしたい、と。

そうすることで母の愛を得られると

思っていたのだと思う。

 

末っ子だった私は、

親戚に預けられることも多く、

また母子家庭となって母はいつも忙しくしていたので、

なんとなくいつも母の愛に飢えていた。

 

 

母が喜ぶ顔を見たい一心で、いろんなことを決めた時期もあった。

姉や兄のように、四六時中母を怒らせないようにすれば

私のことだけを見てくれる。

かわいがってくれる。

いい子でいればいい。

母が望むようないい子でいれば。

そう思ってがんばった。

 

 

しかし、母に褒められた記憶を私は持っていない。

 

母がずっとやっていたバレーボールを小学校から始めた。

母は試合や練習を見に来てくれたが、

されるのは注意ばかり。

「あの時あなたがこうしなければ負けなかった」

「あの時こうしてればよかったのに」

経験者だからこそ言いたくもなったのだろうが、

私はもうバレーを好きにはなれなかった。

試合に出れば注意されるから、

レギュラーになんてなりたくなかった。

 

成績はわりといいほうだったので

頑張って勉強して高校は地元で一番の進学校に入った。

 

田舎の小さなコミニュティで、

あの高校に入った子供がいる、ということは

親にとって少なからずステイタスになることを知っていた。

(もちろん私のステイタスになることも計算していたが。)

 

そのころ母は自分が所属するコミニュティで

自慢気に私がその高校に入学することになったことを話していた。

そんな母の顔を見て、私はすこしうれしかったが

おめでとうとは言ってもらった記憶はない。

 

 

 

褒めることはないが、

こうなってほしい、と思うことはいつも言ってきた。

 

受験する大学を選ぶときも

就職先を選ぶときも

ここにしようと思う、と言ったとき

母は「こちらの方がいいと思う」「こちらにしたらいいのに」

と口を出してきた。 

 

私はその言葉に動揺しながらも

最終的には自分で決めた。

 

結局、どちらも自分が志望したところに決まったが

この時にも母から「おめでとう」と言われた記憶はない。

応援すると言ってもらえた記憶もない。

銀行の就職内定をもらったときに言われたのは

「あなたに銀行の仕事なんてできるの?」だった。

 

 

大学の合格通知が郵便で来たときは、

私に渡すことなく勝手に開封していた。

 

乱暴に開けられた封筒を見て

とても悲しい気持ちになったことを母は知らない。

 

 

自分の意見を言うことも難しかった。

喧嘩するほど仲がいいということわざは、

あながち間違っていないのかもしれない。

 

私が母の勧める選択をしなかったからだ、と

自分を責めることしかできなかった。

 

 

就職して1年半ほど経ち、

転勤で地元を離れ、一人暮らしをするようになると、

母から自由になりたいと本気で思うようになった。

 

母は、地元企業だからずっと地元にいると思い込んでおり、

「なんであなたが?希望でもしたの?」

と不満を漏らした。

 

 

 

母の顔色を伺うことなく

好きな時に好きなことができる一人暮らしの解放感に

私は実家を居心地の悪いものとして認識するようになっていく。

 

それと反比例するように、

母はことあるごとに実家に帰るよう言ってきた。

赴任先から実家までは車で3時間の距離。

帰れないことはない。

 

しかしなるべく帰りたくない。

でも母は帰ってきてほしい。

なんとか親孝行と自分に言い聞かせ休みの日に帰ったが

次はどうやって断ろう、といつも言い訳を考えていたような気がする。

 

 

 

結婚が決まった時

「この子と結婚する時はもれなく私もついてくるよ」と

冗談ぽくながらも夫に言ったときは

正直ゾッとした。

 

経済的に独立しても、

自分の家庭を持っても、

私は母から逃れられないのかと。

 

 

母は自分の元に私がいれば

私は幸せだと、もしくは楽になれるのだと思い込んでいるようで

何かあるとすぐにこっちに帰って来いと言う。

だが私は逆だ。

何かあった時こそ母から離れたい。

 

それを直接伝えたことはない。

 

 

 

子供が生まれ、

孫の状況が知りたいという理由から頻繁に連絡を寄越すようになったのは

誤算だった。

 

ひどいときは毎日。

ただでさえ母から逃げたい私にとって

子育ての疲労も相まって

ディスプレイに母の名前が浮かんだスマホを見るのは苦痛以外の何物でもなかった。

 

「疲れていることもあるから電話はなるべくやめてほしい。」

そう伝えるのが精いっぱいだった。

用事があるときはLINEで、とお願いしつつもLINEは通知オフに。

それは今も続いている。

 

 

母がまだ健在であること、

それに感謝すべきなのだろう。

そして、今のうちにできることを探すべきなのだろう。

 

しかし母が私に自分の価値観を押し付けようとしたこと

気に入らなければ怒り、手を上げ、

自分の思うとおりにさせようとしたことは

なかなか私の中で消化が難しく

今でも母との関わりはかなり気が重い。

 

思い切って言えたらいいのにと思う。

だがそれもできない。

 

感謝はもちろんある。

申し訳ない気持ちもある。

もっと仲良くできたらいいのにと思う気持ちもある。

 

でも、できない。

どうしてもできない。

 

いつか後悔する日が来るかもしれなくても。

 

 

 

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あとがき

 

最近ずっと、自己分析のようなことをしています。

自分が大切にしていること、

苦手なこと、

なぜこういう思考になるのか。

 

その中で、自分の性格には親との関りが大きく影響しているかもしれない、

と思ったのがこれを書くきっかけです。

 

書いているうちに思考がまとまるかなと思いましたが叶わず

結論のようなものにも辿り着かず、

とりとめもない自分語りになってしまいました。

まとまりのない文章を披露してしまい恥ずかしい限りです。

でも、これが今の私に書ける精一杯でした。

 

友人にも話せないようなことをここで書けるのが不思議ですが、

ここでなら話せるような気がしてすべて書いてしまいました。

 

気づけば4000文字近く。

長文乱文最後までお読みいただきありがとうございました。

 

最後に、これを書くきっかけになったお二人の記事を。

 

もたろうくんの記事。

心をぐっとつかまれる文章です。

motalow.com

 

やーさんの記事。

今だから思うこと、胸が熱くなります。

ya-san.org

 

お二人には無断でリンクを貼らせてもらうことをお許しいただきたく思います。

 

※up後追記

 

書き上げた後は気づかなかったのですが

これをアップして、しばらく家事などをして。

 

ふと、

もしかしたら私の自己肯定感が低いのって

母との関係が影響しているのかも?と思いました。

 

頑張っても褒めてもらえなかった。

もっと頑張らないといけないんだ。

常にそう思っていた気がします。

 

すべてを母のせいにして被害妄想にひたるつもりは更々ありませんが

そうだとしたら合点がいくなぁ、とひとつ発見したのでした。